おやすみ
この戦いはいつまで続くのか。疲労は極限に達し、空腹で倦怠感が襲い、身体は思う様に動かない。吹き付ける風が心地よく、思考はどんどん奪われ、先程まで帰りたいと思っていた筈なのに、どうしてか今はどうでもよくなっていた。
「島崎、前を見ないと殺られてしまうよ!」
「あ……そうだね」
敵から視線を外せば、的となるのは当たり前。チラと視線を敵に向けると、注意を受けた通りに敵は襲って来る。抵抗しなければ集中攻撃を受けるのは当然。彼の言う通り、殺られてしまうだろう。死への探求心が敵の攻撃を避けるなと言っているようで侵蝕者の鞭が身体に当たり、打ち付けられる。バシンッ!と軽快な音が響いて島崎はその場に倒れ込んでしまった。
「ひぐっ!! うぅ……やばいって、これはやばいよぉ……」
死への探求は恐怖へと変わる。敵の攻撃を受けると共に精神が侵蝕されて、平常心が保てなくなっていた。身体中全身に痛みが走り、手が震えてしまって弓も真面に持てない。再び帰りたいと思い始め、これ以上の戦いは不可能だ。
「あ、あくたがわ……」
「なんだい、戦えないのなら下がっていてくれないかい」
名前を呼ばれて、鬱陶しく感じた芥川は島崎を睨んでから、直ぐに敵へ視線を戻して戦い始める。
荒い動きは見せず、一歩踏み込む際の砂利と剣が空を切る音しか聞こえない優雅で軽やかな舞い。そして、何処か余裕のある動きは美しく、見惚れてしまう戦い方。澄んだ蒼の瞳は海のように深く敵を冷静に見据え、次の一手を読んでいるのか隙を与えず敵を斬り込んで行く。
狙った獲物を離さないかのように敵を次々と倒していく芥川の姿に島崎は己に対して劣等感を覚える。
「ごめん……」
この場では完全に役立たず。仲間の足を引っ張り、付いて歩く事しか出来ない今の自分はお荷物と一緒で、早くこの場から消えてしまいとすら思い始めた。
他の仲間に助けを求めたくとも、迷惑を掛けてしまうし、二人の仲間は途中で逸れて何処かへ行ってしまった。芥川に助けを求めたくとも、今更こんな自分を助けてくれるとも思えない。ならばと、いっそ消える前に少しくらいは目の前の彼の役に立って見せようと。島崎は重い足を上げて立ち上がる。身体がふら付くが両足に力を入れると全身を何とか支えられた。
弓を構えると矢をつがえ、芥川に集中する敵の一体へ狙いを定める。痛みで手が震え、なかなか狙いが定まらないが、既に満身創痍。ここで諦めて、次の一手を狙ったとしても状況は変わらない。それなら、この一回に全てを掛ける。何もかもを捨てる覚悟で。
「ねぇ……死ぬってどんな気分?」
返しが付いた矢尻がギラリと光り、鋭く早く宙を飛ぶ。やがてドスッと、鈍い音が響いて一体の敵に突き刺さると四散して消滅した。
これで少しは役に立てただろうか。そう思うと嬉しくなった島崎は緩い笑みを浮かべる。集中力が切れた彼は背後に敵がいるのも気付かず、一人で風に当たって笑っていた。
「ふふ……」
侵蝕された身体や思考は汚染されて、自分自身のことすらよくわからない。ただ一つ分かる事といえば、少しでも芥川の力になれたと言う事実。
背後を狙い、島崎を襲った侵蝕者は彼の背中にナイフを振り下ろす。気付いて振り返ろうとした島崎は一歩遅く、衣服を貫通して皮膚をも斬られるとポタポタと鮮血が滴り落ちた。
「アアァッ!!」
肉が抉られ、重い痛みが全身を襲い、思わず叫んでしまうと完全に力を失い島崎は再び倒れ込んで蹲る。生理的に涙が溢れ、同時に負の感情に侵蝕されて悲しみが押し寄せた。
「どうして……なぜ……ぼくは……」
こんなにも役立たずなのだろう。声にはならず、悔しさに歯を食い縛る。痛みとは違う別の涙も一緒に溢れて、瞼を閉じようとしたとき、身体が宙に浮いて双眸を見開く。
普段は見る事のない翠色の瞳。何度か瞬きを繰り返す姿が小動物のようで、こんな状況だというのに面白いと感じて軽く笑いを溢す。
「君、随分面白い顔をしているね」
「なんで……どうして? どうせ、ぼくは……」
「はぁ、喪失すると、こんなにも人が変わるなんて恐ろしいね」
島崎を姫抱きした芥川は目の前の敵を一蹴りして、一旦距離を取った。島崎を安全な所へ移動させようと一先ず逃げた芥川はやがて、何の気配も感じない木の影に隠れる。
「ここなら大丈夫かな」
「芥川、行かないで……」
「……はぁ」
震える手で芥川の裾を掴んだ島崎は瞳を濡らしながら寂しさを訴える。
この状況で一人にされたくはない。この温もりを離したくはない。そもそも、あの敵の数を一人で相手にするとなれば、いくら優雅で余裕のある戦い方を見せる芥川でも限度があるだろう。それなら、他の仲間たちが来るまでここにいるべきではないだろうか。
働かない頭を必死に回して目で訴える。芥川も島崎の考えを察したようで顔に汗が滴り落ちる。いつもより険しい表情を浮かべる彼の姿。島崎は更なる不安に駆られ、手に力を込めて離さない。
「お願い、行かないで。次は君の足を引っ張らないから、お願い、芥川」
「……島崎、君は喪失して精神が安定していないんだ。普段の君なら、そんなことは言わないだろう」
「芥川、芥川、お願い、お願いだから、何処にも……君の言う事、聞くから、お願い……」
裾を掴んでいた手は離される代わりに頬に温かな感触が伝わった。皮膚から直に伝わる振動。痛みに歪む表情と寂しさに流す涙でぐちゃぐちゃな顔は、やはり普段の彼とは全くの別物で芥川は小さく笑いを溢す。
島崎は芥川の頬に触れて懇願した。その瞳からはぽろぽろと涙が滴り落ちる。彼がなぜ笑っているのかわからないが、恐らく初めて向けられた笑顔。今のこの状況で見たくはない表情だった。
「あくたがわ……」
「はいはい、わかったよ」
駄々を捏ねる子供のように懇願する島崎に負けて、芥川はその場に座り込むと島崎を寝かせて膝枕をした。
芥川は色素の抜けた黒髪に指を通して緩く撫でて髪を梳いた。サラサラと髪が指の間を流れてすり抜けて通した指は下ろされる。頭を何度か撫でて大きい子供をあやした。
「大丈夫。僕はここにいるよ」
「あくたがわ……おねがいだから……」
痛みに意識が朦朧としているのだろう。それでも、止まない涙。不安でどうしようもなく精神が侵され、あと一回程攻撃を受ければ、直ぐにでも喪失してしまうだろう。
敵の気配が近付いて来ているのがわかる芥川はこの愛し子を守る事に全力を尽くそうと決める。泣き止まない彼の目元を手の平で覆い、視界を遮断させると瞼を下ろさせる。強制的に眠りに就いてもらおうと。
「島崎、大丈夫だよ」
「でも、君は……?」
「僕も直ぐに君と一緒に休むから、今は先におやすみ」
「やくそくだよ……」
「うん、おやすみ、島崎」
覆った目元、その自身の手の甲に唇を寄せる。生きて帰れたら、ご褒美に唇の口付けを貰うのも良いかもしれない。そんな悠長なことを考えながら島崎を寝かせた。
恐らく生きては帰れないだろう。それでも、普段からは決して見る事のない甘えた表情の彼を見る事が出来たのだから、冥土の土産には十分だ。剣を構えて、その場を後にした。
「さて、この先は大切な子がいるんだ。だからそこ、どいてもらおうか」
集団で襲い掛かる敵を一掃する。しかし、敵の数は圧倒的に多く、全てが避けきれずに肩や横腹、両足と、次々に生傷を増える。
侵蝕を受けて周囲が正しく認識できていなかった島崎からは芥川が美化されて見えていたようだが、既に先の戦いでボロボロの芥川も満身創痍だった。
耗弱ではなかったものの、複数の敵を相手に一人で戦えば、耗弱になるのもあっという間で腕に力が入らなくなる。
「もう、働きたくない……」
弱音を吐いて膝から崩れ落ちる。敵はそんな彼を無視して、その後ろにいる島崎の方へと向かうが、それに気付いた芥川も剣を構え直して、敵に向かって走る。
「そこには行かせないよ!!」
もはや、侵蝕を受けた芥川自身も正気を失い掛け、島崎を助ける事を原動力に動かない筈の体を無理に動かして戦っていた。
―――これで僕も、漸く休めるよ。おやすみ、島崎……
消毒液の匂いが漂う補修室。壁や天井、カーテンに至るまでの全てが白に覆われた世界で目を覚ます。
「やっと目が覚めたんだね、良かった」
「しゅう、せい?」
寝台の隣へ椅子を置いて座る友人が胸元に手を当て安堵の溜息を吐いた。それを呆けた表情で見つめ、何故ここにいるのかを思い出そうとする。
有碍書へ潜書した会派は敵の罠に嵌まり、仲間たちと逸れてしまった。その為、一人で仲間探しをしていたが、途中で芥川を見つけ、二人で敵と戦いながら仲間を探す事に。しかし、敵はあまりにも強く、二人で大多数の敵を倒すのは不可能に近く、喪失して戦えなくなってしまう。それからの記憶はぼんやりとしか思い出せないが、芥川が一人で戦おうとするので、止めた記憶はうっすらと残っていた。
あの敵の数を一人で戦おうとしていたのだ。
「あ、そうだ。ねぇ、秋声、芥川は?」
「え? 君があの人を心配するなんて珍しいね」
「うん、そうだね。それで、芥川は? 僕を助けて一人で戦っていた筈なんだ。取材しないと。嫌いな人を助けた気分はどうだったって」
「……島崎」
脳裏に浮かぶ不安。大多数の侵蝕者を相手に一人で戦うのだから、恐らくタダでは済まない傷を負って喪失していることだろう。だが、そんな不安から目を背けるように取材の事で話を逸らしたが、秋声の表情はとても険しく歪められて暗くなり、突如両手を握られた島崎はそれ以上の口を閉ざした。
冷めた声で紡がれる名前。それが、これから告げられる内容と関係しているのは直ぐにわかり、これ以上先の事は出来るならば聞きたくないと、耳を塞ぎたくなった。だが、徳田に両手を握られてしまった事で大人しく話を聞くしかない。
「落ち着いて聞いてね。芥川は絶筆したんだ。他の二人が駆け付けた時には君しかいなかったそうだよ。ただ、倒れ込んでいた君の傍にあの人の煙草が落ちていたそうだから、絶筆したんだろうって」
「……そう、死んだんだ。死ぬってどんな気分か、聞いてみたかったな」
「……島崎」
秋声から視線を逸らした島崎は真っ白な天井を眺めた。真っ白な世界と同じように心が空っぽに感じて、大好きな筈の取材すらどうでもよいと思えた。
今はただ一人にしてほしいと瞼を閉じて、視界を遮断する。そんな彼の気持ちを悟った秋声も何も言わず、そっと部屋を出て行ったのだった。
「どうして、置いて行ったの、芥川……」
―――また君は、僕を傷付けて旅立ってしまったんだね。
静かな室内でそっと涙を溢した。