きっと明日は
「乱ちゃ~ん!」
彼が大きく手を振りながら近付いてきた。太陽みたいに明るい表情を浮かべた彼はいつだって、その笑顔を絶やすことはない。大きく手を振る彼に合わせて、ボクも手を振り返す。
「こんにちは、浦島くん」
にこやかに笑い返すと、彼は顔を真っ赤にして照れるので見ていて面白い。喜怒哀楽が激しいけれど、殆ど怒る事のない彼。多分、ボクは知らない。彼が怒っている姿を。
「どうしたの、浦島くん」
「いや、なんでもないんだけど」
「なんでもないのに、ここに来るの?」
こことは、ボクの部屋だ。彼は決まって毎日、同じ時間にここを訪れる。だからボクもここで待つ。最初はそんなことも知らずに、留守にすることが多かったのだが、彼が頻繁に訪れる時間帯がおやつを食べる前、それか、食べ終えた後だった為、部屋で待機して記録を付けてみた。すると、毎日同じ時間帯に来ている事がわかったので、自分も彼に合わせて待機するようにしたのだ。気付けば、それは日課となり、おやつを準備して、二人でお茶をした。美味しいカステラを食べたり、ケーキを食べたり、お饅頭を食べたり。おやつを食べながら日常の話を交わす。それぞれの兄弟の話。昨日の戦の話。今日の仲間たちの話。明日は何があるのかの話。毎日飽きずに、二人だけの時間を楽しく過ごした。
「あ、あの、明日こそは本丸を出てみない?」
「またその話?主さんの許可なしに、出ちゃダメって言われたでしょ」
「でも、ここじゃ、落ち着いて過ごせないよ…」
ボクは一つだけ知らない彼の顔がある。喜怒哀楽の怒。喜、哀、楽の3つしか知らない。普段怒らない人は怒ると怖いというが、彼は怒っても怖くなさそうだ。そんな事を彼に言うと、きっと笑って困らせるだけなのだろう。敢えて口にはしなかった。
「ボクは落ち着いて過ごせるよ。二人で部屋の中にいたら…」
「いつも一期さんが来るじゃないか…」
不満気な表情を浮かべる彼の顔を見ていると、怒っても怖くないんだろうな、と思う。だからこそ、彼の代わりにボクが怒る。彼に足りない部分をボクが補ってあげるように。
「主さんの命令は絶対だよ!?約束を破って、刀解したらどうするの!?」
「そ、そうだよね…」
ごめん、と小さな謝罪の言葉が聞こえれば、笑って許してあげる。そして、この話は終わる。
自分の部屋の円卓の上に用意しておいた本日のおやつと飲み物を口にして、何気ない話を交わすのだ。
どうして、彼がそんなに外に憧れを持つようになったのか。それはボクらの関係が原因だった。
「乱ちゃん、はい、あ~ん」
「ん、あ~ん」
彼の食べかけのおやつを口元に寄せられたので、それを口で受け取って食べる。キスの代わりに関節キス。子供騙しだと内心思いながらも、それしか許されない関係。口に広がるおやつの甘味。キスの味はどんな味?このおやつのように、甘い味がするのだろうか。
そう、ボクたちはお付き合いをしていた。彼がボクを女の子と勘違いして、毎日べったりだったので、男の子である事を明かしてみたら案の定、がっかりした顔をされた。しかし、一日で彼は元気を取り戻したかと思うと、〝それでも乱ちゃんが好きだ〟と言うので、ボクもそんな彼に惹かれてしまった。気付けば彼と、毎日過ごす様になり、そして交際が始まる。ボクらは恋人同士なのだ。それなのに、キスを満足にしたことが無ければ手を繋いだこともない。全て、お互いの兄に邪魔をされ、兄弟たちが現れ、そのような事が出来ずにいたから。
浦島虎徹は外に憧れを抱いた。二人で外に出掛ければ、邪魔する者などいないという、理由から。
「乱ちゃん、今日は雨だよ」
「そうだね」
「やっぱり、行こうよ」
ガラス障子の奥の景色を眺めながら彼は真剣な表情で問い掛ける。けれど、その問いには首を左右に振る。行けない。主に駄目と言われているのに、外になど出られない。
「浦島くん、だめだって、何度言えば…」
突如、彼に腕を掴まれたかと思えば、立たされる。彼の目は真剣だった。外が雨で暗いため、彼の表情も影が入って暗く見える。いつも笑顔の絶えない彼の表情は笑っていない。酷く冷たく感じて、初めて怖いと感じてしまった。
「行こう、乱ちゃん」
返事などしていない。頷くことも出来ない。それなのに、彼は腕を引いて外へと向かった。傘を差さずに、本丸の裏口へと向かい出陣や遠征以外で外へと出た。滴る雨に髪や服がびしょ濡れで、風邪を引いてしまいそうだ。泥が跳ねて足を汚し、気持ち悪い。足を止めれば、彼の動きを止められるのかもしれないが、何故だかそれが出来なかった。
「浦島くん」
「……」
「浦島くん!」
「うわっ!」
名前を呼んでも返事をしてくれず、とうとう腕を引き返して足を止めると、彼はバランスを崩して転びそうになった。ぎりぎりで体勢を立て直してくれたおかげで転ばずには済んだが、雨と泥で汚れているので、転んでも同じかもしれない。
「もう、疲れたよ」
「ご、ごめんね」
必死に謝る彼は蒼い上着を脱いで、ボクの頭の上へ被せる。既に雨で重みが増した上着を被せられても、あまり意味がないとは思うが、これも彼なりの優しさなので素直に受け取る事にした。
「やっと、外に出て来られたね」
「うん」
「どこかで雨宿りしないと」
「うん」
「乱ちゃん?」
主の命令を無視して、勝手に出てきてしまった。喜怒哀楽の怒がない彼の代わりに、ボクが怒らなければ。そう思い、顔を上げて、叱責しようとした。しかし…
「んんっ!?」
「…ん、乱、ちゃん」
唇に柔らかなものが触れた。雨で濡れて気持ち悪いというのに、優しい何かがボクを包む。
重ねられた唇。その合間に濡れた何かが触れて、擽られる。僅か口を開けてみると、それが口内へと侵入してきたので恐る恐る、同じものを伸ばしてみた。すると、甘い味がして、ねっとりと絡み合う。
「…っふ、んん、」
「…っ、ん」
寒い筈なのに、彼は優しく体を抱いてくれた。暖かな体温がボクを包み、贅沢にも優しい甘さを感じて目を閉じる。雨なのに、悪くないと感じてしまう。怒りは収まり、彼の優しさに中和されてしまいそうだ。
そのまま、ボクたちは暫く口吸いを続けた。初めての味、初めての感覚。初めての温もり。それは、おやつの子供騙しの甘さとは比べ物にならないくらいの大人の味で、癖になりそうだ。幸せがボクを包んだ。
「勝手に連れ出すとはどういうことですかな、浦島虎徹殿」
「うぅ……」
「主の命令を聞かず、弟を雨で濡らしてしまっただけでなく……」
「蜂須賀さん、いいんですか?」
「ん?何がだい?」
彼は案の定、自分の一番の兄に説教を喰らっていた。主に怒られることはなかったのだが、己の兄は弟のことに関して厳しいところがあるので、見ていて可哀想だと思ってしまう。だが、彼にも兄がいる。その兄が目の前で叱られている弟を見ているのだから、気分の良いものではないだろう。
「良いんだよ。何かあってからでは遅いんだ。俺の代わりに叱ってくれている。間違ったことは正さなければ。寧ろ感謝しているよ」
「そ、そうなんですね……」
きっと、この説教が終わった後は軽くでも、実の兄に叱られるのだろう。そう思うと、気の毒に感じてしまう。
仕方ない。ボクは重い腰を上げて彼の傍に寄って、同じく正座をした。
「いち兄、叱るならボクも叱ってよ。一緒に外に出たのはボクも同じ。浦島くんの誘いを受けたボクも説教を受けないと」
「乱……」
「み、乱ちゃんは違うよ!」
彼は必死に違うと言うが、あの甘い誘いを断れなかったのは本当だ。寧ろ、また外に出たいとすら思うようになってしまった。
あのとき、無言で外に出たのは彼なりの怒りだったのかもしれない。我慢の出来ない彼はボクが誰かの命令でしか動けない事に怒っていたのかもしれない。一度破ってしまえば癖になってしまう。ボクもまだまだだ。甘い誘惑に負けた。次はもっとうまくやらないと、また彼に怒られて、強引に連れていかれてしまうかも。
きっと明日は上手く外に出られるだろう。もう、ボクは迷わないから。
それほどまでに浦島虎徹に惚れてしまったのだ。もう誰にも、ボク自身にすら、止められない。